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入船亭遊京大全2

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許さん

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     一緒に旅に出る許飛さんはどんな方なのかという問い合わせを随分いただいております。

     

     遊京、お前騙されてるんじゃないか?
    と、皆さんが心配してくださっています。

     許飛さんが以前日本を一周した際に書いた紀行文は、中国の新聞で公開されました。

     その中文の紀行文を、知り合った日本人のご夫妻がまた日本語に翻訳してくださいました。


     いくつかの中で、私の出身の愛媛県松山市にある石手寺を訪れた際のものを転載します。

     文 許飛 (訳文 小笠原さん)





    人の痛みを知る
    2016−04−10(第56日目)

    松山に列車で向かう途中、停車した小さな田舎の駅で、若い男女二人が列車に乗り込んできた。中学3年生か高校1年生ぐらいの生徒であろう。二人とも白い体操服を着ている。二人は並んで座り、小声でしゃべり合っている。そして、ある駅に着くと、男の子が女の子に“さよなら”を告げて下車した。女の子は彼が目の前から消え去るまで、ずっと見詰めていた。やがて手提げからケイタイを取り出した。それは、もしかしたら彼に何かの連絡をしていたのかも知れない。

    春という季節は万物が甦るときで、女の子のいる家では、きっと美しい人形を飾ることだろう。また、男の子のいる家では、庭には色とりどりの鯉のぼりを立てる習わしがある。



    今日、訪れる石手寺は四国遍路八十八箇所第五十一番の札所である。その寺は私がいま滞在している愛媛県における最大の寺でもある。

    寺までの道中に静かな小道である。道のほとりには、いろいろな花が咲いている。虞美人草、きんりょうへん(訳注:野生の蘭の一種)、そのほかに、からすのえんどうなどもある。
     

    林に入って木陰の小道をたどり角を曲がると、人群の石像が目に入った。一体の菩薩の石像が木の下に立っておられて、その向かいには、たくさんのお地蔵さんたちが並んでいる。それは膝の高さにも満たさない小柄なお地蔵さんたちがある。それらには人名が刻まれている。

     

    とりわけ普通の菩薩像と異なるところは台に碑文である。そこに書かれているのはアジア太平洋戦争の反省を込めた慰霊の言葉である。その最後には殺生しないという誓い言葉もある。


    武器を手にしではならない、
    このことは、
    恐怖をおこし争いを増大させる。

      

    訳注:これら二つの言葉は“不殺生の誓い”の内容である。

    寺の境内は線香や蝋燭の火が盛んに燃え、煙はもくもくと上がる。残った灰が大きな香炉に一杯になっている。古風で質朴な本堂は時代を経った重みが感じられる。もともと、提灯に貼ってあった白い紙はほとんど破れ、しかも煙にいぶされて黄色くなっている。ひさしの木材は黒光りして趣がある。



    お遍路の信者たちが寺の庭で、寺の長老の指導のもとに、教えを唱え始めた。その声は寺中にこだまする。そばでは。ともされた蝋燭がかすかな光を放っている。

    この寺は1300年の歴史があって、庭には三重の塔もある。良く見ると、その下に立てかけてある木の板の上にはこういう文字が書かれている:東日本大地震で亡くなった人を慰霊する、再建復興を祈る、原発再建に反対する。また、別の板にはニシも書いてある:イラク侵攻及びあらゆる戦争暴力の犠牲者を追悼する。

    私を驚かせたのは、一枚の板に書かれている言葉である:四川省とミャンマー(訳注:旧称ビルマ)の大地震の死者を追悼する。2008年5月12日の汶川(訳注:四川省にある一地名)大地震では、10万人の命が奪われたと言われている。


    歩いていくと、も一つの鎮魂碑の前に出た。そこには、こう書かれている:第二次世界大戦中、ミャンマーの戦場で亡くなった日本の愛媛県出身の兵士5500余柱及びその戦場で亡くなった全国の兵士18万柱に対して心から追悼し慰霊する。


    ここはミャンマーの風格を備えた塔である。入口の前には、また小さな石碑があってミャンマー語であろうか、私は読めない。入口の両側には壁画がある。上半分には美しい孔雀の姿が描かれ、下半分にはひと山の白い人骨が描かれている。その周囲には日本軍の軍服を着た兵士たちが大勢倒れている。



    建物の中に入ると、天井には一羽の美しい霊鳥の鳳凰が描かれ、四隅には羽を広げた孔雀が描かれている。本堂の中央には仏壇が設えられている。中ほどには位牌があり、ミャンマーの戦地における殉難者の霊と書かれている。両脇にあるいくつかの位牌には小部隊の番号が書かれている。



    白壁の右側に‘金色の文字が書かれている。それは愛媛県ミャンマー戦線での殉難者に対する鎮魂という文字である。左側には隙間なくびっしりと書かれた各地域別に戦死した将兵の名前が書かれている。総計5500人陸海空の三軍合わせてである。



    ガラスの箱の中にはミャンマー戦線の戦没者名簿が置かれてあった。箱のそばの壁には戦時の日本軍のミャンマーにおける戦闘や生活の様子の写真が掛かられていた。また、一つの額の中に黒い大きな字でこう書かれていた:戦友たちよ、どうか元気で生きていて下さい。背景には小さな字で書かれた署名があった。その数は幾百にものぼる。



    箱の上には書置きノート一冊、置かれている。何気なく手に取って開いてみると、中にはぎっしりと亡くなった兵士の家族や戦友たちが残した言葉が書置きされている。



    1、“倉雄おじさん、やっとお参りが出来ました。心より、安らかにお休みください。
    私は決してあなたのことは忘れません。戦後65年余り。。。高齢化が進み、お話を聞く事が難しくなりました。

    平和な時代に育った私にとって、いつまでも私の心の中で倉雄おじさんの事を忘れない事が供養だと思っています。”

    署名したのは八幡浜市の山下というご老人である。



    2、“私は父と別れたのが4歳でした。今日、父の名前をさがしてあて、安心しました。
    父の膝の上で卵を剥いてもらったのが最後でした。

    私も69歳になりました”



    3、“父にいろいろ話を聞いていました。その父も昨年、他界いたしました。そちらでいろんな話をして下さい。安らかにお休み下さい。”

    このノートには、また別の人が書置きの言葉があった。“今日は娘と主人と私の3人でビルマで亡くなった父の名前をさがすため石手寺に参拝に来ましたが、残念ながら、見つかりませんでした。”



    分かった戦死者の名前をすべて書き上げるには、もともとこの壁一杯でも足りなかったのではないか。名も知られずに亡くなった兵士の数は元来、ずっと多かったに違いない。

    4、“ビルマ戦没者の中に父の名前をさがしてあった時に、思わず涙が出ました。写真でしか知らない顔が浮かんできました。持っていたハンカチで丁寧に名前の上をぬぐって。。。。。。”



    署名は松山市の武智昌夫と書いてあった。私は壁に貼られた紙をもっと細かく見にいくと、武智孝重という名前が書かれているのを見つけた。私は、その息子であろう人が目に一杯涙を浮かべながら、ハンカチで父親の名前の上を丁寧に拭っている場面を想像した。すると、思わず胸が一杯になった。



    そのとき、門口に一人のおじさんが私に挨拶して、こう言った:“ああ、この人たちは皆、罪のない人たちなのですよ。何も知らされずに政府によって駆り出されて、戦死したら、壁の上に名前を刻まれ英霊として称えられる。”そう話してから、ため息をついた。

    私:“本当に気の毒に思うのは戦没者は皆、若い人たちだったということなのです。”

    おじさん:“今の日本の政府もよくない。安保法案を通さうとやっきになっている。国防のためだと言い訳けして若者を戦場に駆り出そうとしている。”

    私:“昔の大戦の時と比べて、今の政府はだいぶましでよう。”

    おじさん:“はい。昔よりは大分良くなりました。けれども、今の官僚たちのやり方もひどいですよ。民間人の利益はいつも考慮されていないのです。”

    おじさんはふっと私が日本人じゃないことに気付いたようで、何回も私に向いて“すみません”とあやまった。

    おじさんは:“終戦の時、あなたの国・中国は百万にのぼる軍人と居留民を日本に送り返してくれたのです。私は心からあなた方に感謝しています。”

    “中国には良い人がやっぱり多いということです。私はあなた方一般の人は心が優しくいい人だちだと信じています。そうだなければ、当時それらの人々は無事に帰ってくることはできなかったでしょう。”

    日本が降伏したのち、百万にのぼる日本の投降兵士や中国本土にやってきた入植者、商人などが留まっていました。当時の中国の一般民衆は心が広くて多くの残留孤児を育ちました。その上、船を用意して日本の人々を国に送り返しました。

    私はおじさんが別れを告げて帰ってからも、書置きノートを眺め続けた。

    5、“兄ちゃん、来ましたよ。
    尾道の駅で見送って行った時に大きな人形を買ってくれたね。私が4歳の時でした。私も72歳になりましたよ。

    母さんからいつも兄ちゃんの話を聞いていましたよ。その母さんも25年前に兄ちゃんの方へ行ったのよね。今は19歳の時の母にしっかり甘えていることでしょうね。”















    この書置きを見て思わず目の前に浮かんできたのは一人の老婦人の姿と4歳の時の妹の姿、そしてこの19歳の兄の姿であった。

    19歳と言えば、私にはちょうと大学に入る年であり。毎日授業を受けて、ある時はずる休みをしたり、本を読んだり、ネットで時間をつぶしたりしていたのだ。

    6、これはある夫婦が新年の元日に書いたことである:“去年は家族全員、つつがなく過ごすことが出来ました。感謝です。毎月必ずお父さんに会いに来ます。命ある限り続行します。

    去年はお陰様で幸せた年となりました。今年も宜しく見守って下さい!”



    7、一人の96歳の老兵、多少字が乱れているけれど、書いた時の心情はよくわかる:“雨期の7月、ジャングルに向け、毎日苦労して歩いて戻りました。”

    老兵の部隊の番号は8415である。



    ミャンマーは熱帯の地域であったので、兵士は蚊にさされたり、蛭に吸い付かれたりして伝染病で死んだり、餓死したりすることが毎日のように起こった。その死者の数は戦闘による死者の数よりも多かった。幸いに生き残った者たちにはこのような情景を“人間地獄”とよんだ。戴安瀾、孫立人、衛立煌など3人の将軍が率いる国民党の軍隊は“中国遠征軍”と称されているが、それが英米軍と連合して日本軍を掃討し始めた。そのことは、中国にとって極めて有益な“滇緬道路”(滇は中国雲南省、緬はビルマ)の開通を促した。また、その軍隊は中国の戦場において最初に反撃行動に出た軍隊であった。

    それによって、中国戦場における95%以上の日本軍を壊滅させることができた。反面、大きな代価も支払ったのである。

    8、長崎県からやってきた子供Akikoさん:

    “私の祖父はビルマで戦死しました。
    妻と3歳、1歳の子供を残して。。。。。。祖父は生活していくのに大変だったと。。。。。。骨もなく、ビルマの砂か石らしきものが届いたそうです。今も、祖父はビルマに眠っています”



    9、“私は毎月石手寺に来ます。私の父はビルマで戦死しました。御蔭で名板もできました。その上に手をのせると、胸に込み上げるものがあります。”




    彼女の父親の名前は佐藤義朝である。私は壁の上に探したら、果たしてその名前が見つかった。



    私は急に悲しみが込み上げできた。

    壁の上に隙間なくびっしりと並んでいるこれらの名前は、どれも皆かつては生き生きとした生命をもち、血の通った、肉体をもっていたのだ。人は草や木ではないから、情や心のないものなどいるはずはなかろう。

    これらの若者たちは、みな誰かの夫であったり、息子であったり、また子供の父親であったりした。しかし、みなこのようにして、戦火の中に消えていったのだ。もともと彼らはみな家族と一緒に安穏に楽しく暮らして行けたはずだった。ところが戦争や、一握りの政治家の野心などにより、彼らは侵略者に変えられてしまった。その結果として、貴い命を落としてしまったばかりか、一家の人たちを生き別れや死に別れの悲惨な境遇に陥れてしまったのだ。男一匹死ぬのなら、それも運命であると思われればよいのかも知れない。しかし、後に残された高齢の両親やかわいそうな妻と子たちなどにとっては、一体この痛手はいかに深いものであっただろうか。

    寺の出入口の傍らには木の大きな立札が立て掛けてあった。それにはこう書かれていた:

    集団的自衛権不用。


    もう片方の出入口には七福神が祭られていた。そばには白い紙の貼られた立札が立て掛けてあって、黒い大きな字でこう書かれてある:

    人を殺さない、
    人の話を聞く、
    不殺生。









    線香の煙が渦を巻く、香炉のあたりで、私は御札を二つ見つけた:

    人の痛みを知る



    松山市はまた有名な温泉の街でもあり、道後温泉は日本最古の温泉である。宮崎はやお駿の《千と千尋》は、この里を舞台としたものだ。この感動的なアニメの結末はハッピーエンドである:千は豚に変身した父母の姿を発見した。ずっと彼を助けてきた白ちゃんも自分の名前を思い出した。そして、機会があったら、人間の世界に戻りたいと言った。彼と千はきっと、また会おうと約束した。

    そういえば、いつのことであったろうか思い出すのだが、同じ列車に乗り合わせた女子学生がケイタイをカバンから取り出して、先に下車した男子学生にメッセージをしていた。それは、きっといつの日にか会おうと約束したのではないか?

    その青臭い恋、その青春の時間と平和な毎日こそが、本当にありがたく大事なものなのだ!

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